橋本関雪記念館竹内浩一VS橋本真次 竹内浩一自選作品展『風の暦より』ギャラリートーク (続き)

『蘊承軒・国際文化芸術窓口』之二十

接上期,我继续将ギャラリートーク実況介绍给我的读者分享!

「関雪」:刚刚讲过的最初に5、6年前也或更早的13、14年前,这里一直没有举办过関雪以外的展览。以前明治大正的知名画家知道很多,当代的画家一直没能参与进来。

感觉到底是不了解一下是不行的,查找了一下,使我们有机会看到刚刚跟大家讲的竹内先生画的《馬》、《猿》,还有《羊》等画作的机会。…稍微请给我们讲一下《狐》,和其他作品比较一下……

日本画家竹内浩一VS[橋本関雪記念館]副館長橋本真次

「竹内」:这是我28時画的。都有些不记得28時画了《狐》,是山種美術館賞展。到这时为止我一直做设计工作,使用相当明快的颜色,特别是面向夏威夷销售的裙子和衬衫等,做过各种东西的设计。那时用的颜色到现在还有,如这蓝色就是。不介意的使用这些颜色,粉色也用,直到30岁为止。到这不久前也画人物画,人物下面有花草、死去的鸟、破烂的布娃娃等,像这样的东西画进了画里…好像有些感伤的……那时哲学的意识完全没有,只是自己的苦恼,我想可能是有点儿想把自己的情绪表现出来的想法吧。

———因此,是将不安的部分寄予其中而画的!今日真的是相当偶然,愛媛县美術館的老师喜欢蝴蝶,采集来好多标本,共画了有5、6张,还有以女儿为模特的。那时的画题现在我还清楚记得:《礼物》、耳鸣》等,画过这样的题材啊!

狐の絵の話し

———有一位先辈,现在还举办的【日春展】,在日展的春季展入赏,入赏者惯例去审查员那里礼仪上的拜访,我们去了下保昭先生家。我的“雲龍柳之友”渡辺君,他也入賞,二人一起去了下保先生家。到了先生家,在接待室谈话时,先生说渡辺君入賞作品特别好,很有魅力……

———因我自己也入賞了,多少先生也会这样夸奖我吧。“你完全不行,怎么画那样的画!不从基础开始重新研究不行!”……杠杠的被数落了!(笑)(全員大笑)

———这样讲,到那时期,我感觉到了画法里一直只用我的癖性作画,无论画多少都只是同样的重复而已。“啊!”30岁时期明白了这一点。这以前我也……这里也经常有渡边出场,去台湾20天,台湾博物館的中国宋時代名品山水如:范寛、郭溪;花鳥:李迪等,还有近代的斎白石等画家的作品给我很深的震撼和感动。哪怕只用这种技術也好,我拼命自学宋代技術,并将自分的個性试着融入其中去创作,30岁时代初开始这样制作。刚刚看的画作雲龍柳旁边画着虾的作品,山本先生也说这张作品“很有意思啊〜”。

但只说了这点儿〜〜〜(笑)(全員大笑)

————然后是画的山種美術館第四回展『猿図』,画悲喜:悲伤和稍微发怒的表情,画的背景是宋時代絵画古色为地色,空间里有緊張感,有意識的带着緊張感画的。这张作品荣获了大賞!下保先生的指摘和我也意識到,作画,不是只画表面,不成功的画出内含的高度是不可以的,下保先生只说「那样画不行!」。却不讲诉怎样做才能达到那样的水平。今日也有高僧来到会场,画画也像禅一样,不是用细致易懂的语言説明就可以的。要去感受并追求更高境界,也或是稍有感觉了吧,这样就如《狐》这幅作品〜(笑)

————那个……我不擅长讲话!(笑)(全員大笑)

「橋本」:哈…,这是最年轻时的作品吧!

「竹内」:这五张「蓑」(猿),1988年前后我40岁左右时画的。

京都和東京的画家共约20人成立了「横の会」。这个会不是以団体宣传自己,而是自己的创作发表的平台。让自己感叹的并用自我危機意識作画。这危機意識很有欲望的促成展览会成功举办而得到满足,这种展览会计划做10年,每人8米左右的空间,做到了10年!

―――『横の会』里有日展画家、創画展画家、院展画家,当然也有無所属的画家。「蓑」正好是第5回展的作品。我感觉刚刚讲的理论在这系列里并没有运用,

嵐山的岩田山上的猿……给野生猿喂食的地方,去到哪里。那时正好很冷,5只猿就这样坐在那里。啊!这很有意思!! 六地蔵菩萨?……虽然还差一只……用这样的感觉画的。假如这里有地蔵菩萨,那么他们一定是头戴斗笠、肩披红布……(想象的景致)在写生现场遭遇这样的对象,就画了!到现在我也不明白……为啥画了铁锁链呢?可能是自己有被害者意識吧~。(笑)(全員大笑)

―――一定是里面影射着当时的我自己吧……。(笑)(全員大笑)

六地蔵のイメージの変わりに”五つの猿”

「竹内」:说点杂谈,在这附近住着我的同年级的陶艺家,他59岁就去世了。他真的很早熟,20时开始就讲出高水平的话,相较也比较不受管束!竟讲些很极端的话。「猿」五张系列出品,我也画了各种动物,此前也稍稍画了猿。为此他说我:『你!连一只猿都画不好,就别画其它各种动物了!!直到真正的猿画能画好为止一直画猿吧!!』。

―――看先人的作品,喜欢画猿的,森狙仙也是如此……森狙仙也是喜欢并画猿,几乎将自己的雅号里加入“猿”字。

―――関雪先生也画「玄猿」。「玄猿」中画有白猿和茶色猿吧!

「橋本」:「玄猿」和「老松白猿」……还有一张是「猿猴対月」,这张画的是普通日本猿。被許永中买去了。

「竹内」:許永中!

「橋本」:是的。这张在関雪作品中最高拍卖价格达到3億8千万日元,也因此而变得有名了。一般时是达不到这个价格的,这只是被洗钱利用了,请大家放心!

普通はそんな金額はしませんからね。(笑)(全員大笑)

「竹内」:台湾故宮博物館附近有張大千住所,他也喜欢長臂猿,画室还在。那里还有猿呢!正如刚刚讲过的一样,即使是画一只猿,也是有回忆也或是知识等……各种东西融入其中……进而制作出来。

「橋本」:在这基础上还想問些问题的话请問吧,因竹内先生不会马上逃掉。(笑)至此,这么長時間,谢谢大家了!(全員拍手喝采)

ギャラリートーク结束了!余韻之时借竹内先生的「雑記帖より」我喜欢的一首诗来结尾吧:

『画』

偶尔

有时会凝视空气。

好像什么也没有

又纳入了种种

画可能就是这样的吧。

竹内先生の下絵

【日本語】前回の記事に引き続き、ギャラリートーク実況『竹内浩一VS橋本真次』を私の読者にお伝え致します。
「橋本」:先程の話ですが。これは最初の頃……5、6年……いや、もっと前の13、14年前程の話ですけれども、橋本関雪以外の事をあまり調べる時間がなくて。それでも明治・大正の方までは色々と知っていたのですが、現存の方まではなかなかカバーできなかったのです。

―――さすがに知っておかなくては駄目だと感じて色々と調べてみましたら、先程申し上げた竹内先生の描かれた「馬」と、次に「猿」。次に「羊」の横顔の絵を見る機会を得ました。……ちょっとこの狐さんの絵の話をして頂こうと思うんですが。他の作品と比べると……

「竹内」:これは28歳の時の絵なんです。28歳の時に「狐」を描いたんだな~。(当時の事は)あまり覚えてないんですけど、山種美術館賞展が開催されて。それまで僕はデザインの仕事をしていたんですが、仕事ではけっこう明るい色を使っていました。特にハワイ向けのドレスとかシャツとか色々な物のデザインをやっていたんです。その時に使っていた色が手元に残っていて……このブルーなどがそうですね。平気でそれを使っていました、ピンク色なんかも使って。それが30歳ぐらいまで続いてたんです。その少し前までは人物を描いてたんです。人物の下にある草花とか、死んだ鳥とか、崩れた人形とか。そういうものを入れてですね……なんか感傷的な……その時は哲学的な意識など全く無いわけですから。ただ自分の苦悩から、その気持ちを表現する気は若干有ったと思います。

―――ですから不安な部分を託しながら描いてたんですね。今日本当に偶然ですけれど、愛媛の美術館の先生が(来て下さっています。) 先生は私の蝶々の絵が好きで集めてくださって、5、6点あります。その絵は自分の娘をモデルにして描いてですね……その時の画題も、今も良く覚えています。「贈り物」とか「耳鳴り」とか、そういう画題で描いてましたね。

―――ある一人の先輩ですがね。「日春展」と言うのが今もある。日展の春の展覧会ですけど。で、受賞して。習慣として審査員に「御礼」といってご挨拶にいく習慣がありまして、下保昭と言う先生のお宅に行きました。僕の(先雲龍柳好きの)友で渡辺君……彼も受賞したので二人で行ったんですね、先生のお宅へ。中に入れて頂いて、応接室でお話していた時に、渡辺君の受賞作品は『大変いい!』『凄く魅力がある』とおしゃって。

―――僕も受賞しているので、少しはそういう言葉を掛けてくれるかと思ったのだけど、『ダメだっ! 君はあんな絵を描いていたらっ!』 と言われたんですよ。『あんな絵ばかりを何本描いててもダメやろ!』『根底から見直さないと!』と……バチンと言われましたね!(笑)(会場の全員大爆笑)

―――そう言うの。それまでも少しは……絵の描き方として、自分の「癖」だけで描いているということは気になっていましたが、何回描いても同じ事を繰り返すだけかな~とやっと気づいたんです。「わっ!」と、30代になってから。それ以前に僕も……ここでよく渡辺君も出てきますけど……一緒に20日間ほど台湾に行ったんです。台湾博物館の中国宋時代の名品山水だったら范寛とか郭溪とか。花鳥だったら李迪とか斎白石とか。そういう作家にもの凄く感動したんです。それを『技術だけでもいいから』と。宋時代の作品の技術を我流で必死勉強して、それを自分の個性にのせて絵描いてみようと思って、30代の頭ぐらいからやりだした。先雲龍柳も描いた。海老の横にある作品。その作品は山本先生も『面白いな~』っておっしゃってくれました。それだけですけど~~~。(笑)(全員大笑)

―――それから後に山種美術館第四回展で「猿図」を描くんですけれども。……悲喜ですね。悲しんでいるのと、少し怒りの表情。その背景に宋時代の絵画の古色を付けたりとか。緊張感を空間に……緊張感を込めたようなのを意識して描いたんです。それがたまたま大賞になったんですね! その時に下保先生の指摘に僕もやっと気付いたんですけれども。これで、『絵の表面じゃない、内面にある物の高さというものを絵に出さないといかん』と。それを下保先生はあの言い方で……『あんなのはダメだ』と言っただけですよ。そうしたらどうやってそのレベルに行くのかは教えてくれなかった。今日も(会場に)和尚さんが来てくれてますが……禅と同じように、細々と言葉で説明するよ うなもんじゃない。それを感受しながらそいう高いものを目指していって。あるいは少しは手応えになるところに『主』があるのかな~と思って。そんなことでこの「狐」は~(笑)

―――あの、話すのが苦手なんです!(笑)(全員大笑)

「橋本」:「狐」って、一番お若い時の作品ですよね。

「竹内」:この五点「蓑」(猿)はですね。1988年ぐらい頃かな。僕が40歳ぐらいで。京都と東京の作家20名で「横の会」を設立したんです。団体でアピールするのじゃなくて。自分の物を創った先。自分がはっとした、自分の危機意識で作品を描いている。その危機意識を凄く意欲的に展覧会でする事によって満たされないか、と。それを10年間やろうということで、一人分のスペースを8メートルぐらいの空間の中で10年間やりました。

―――日展の作家もいるし、創画の作家もいるし、院展の作家もいるし。もちろん無所属の作家もいる。「蓑」はちょうど5回目の作品です。先程言ったような理屈はこの絵には持っていなかったような気がしますね。嵐山の岩田山に猿を……野生の猿を餌付けしているところもあるんですけれども、そこへ行って。ちょっと寒かったんで、5匹がこのように座ってたんですね。あっ!、これは面白い!! 六地蔵ですかね?……もう一匹足りないですけれど……そういうイメージで描いたんです。(もし)そこにお地蔵さんが居たら、帽子を冠ったり、赤い布を被せたり(というイメージで。)現場へ行ってからこの対象に出会って、絵を描いたという。今も分からないのは……何で鎖を描いたのかなぁ?何だか……自分の被害者意識なのかな~。(笑)(全員大笑)

―――やはり自分を映しているのでしょうしね……。(笑)(全員大笑)

「竹内」:余談ですけど、此の近くに同級生の陶芸家……59歳で亡くなったんですが。彼は本当に早熟で、20代からレベルの高い話をしてました。そのかわりヤンチャでしたわっ!もの凄く極端な事を言う。「猿」を5点を出した後に色んな動物を描いたんですよ。その前にちょっと猿を描いたんです。そうしたら『お前っ!猿一匹も描けへんのに、こんな色んな動物を描くなっ!!本当の猿の絵を描けるまで猿の絵を描いてろっ!!』と言われました。

―――絵を描くには先人たちの絵を観るんですね。森狙仙もそうやし……森狙仙は自分の雅号に猿を入れているぐらいですから。

―――関雪先生も「玄猿」。玄猿の中に白猿と茶色猿がありましたね!

「橋本」:「玄猿」と「老松白猿」……もう一つ「猿猴対月」は普通の日本猿です。許永中が買ってましたね。

「竹内」:許永中っ!

「橋本」:はい。あれは関雪の作品で、最高落札額をマークして3億8千万だったんです。そんなことで有名になってしまったんですけどね。普通はそんな金額はしませんからね。あれはマネーロンダリングに使われちゃっただけです。ご安心ください!(笑)(全員大笑)

「竹内」:台湾故宮博物館の近くに張大千という人が住んでて、その方も手長猿が大好きで、そのアトリエまだ残っていてね。猿もいますよ、そこに!先にお話したように、一つの猿を描いていくと、何かの思い出とか知識とか……色々なものがどんどん入ってきて……何かを造り出しますよね。

「橋本」:この先のお話が聞きたいなら、先生はここからすぐには逃げられませんので。(笑)この会場に居られますので、色々と聞いてみてください。では、長時間どうもありがとうございましたっ!(全員拍手喝采)

こうしてギャラリートークが終わりました!その余韻に竹内先生の「雑記帖より」の私が好きな一句で締めましょう:

『絵』

ふと

空気をみつめるときがある。

何も無いようで

いろいろはいっていて

絵もそんなものかも知れない。

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